今日もいつも通り、息子を保育園に送ったのですが、
入り口の掲示板にあった広告の印象的なキーワードです。
「孤育て」なるほど。
昨日のブログではありませんが、他人とコミュニケーションがないと「孤育て」になるのだとか。子育ては一人でできない事はもちろんのこと、家族総出で行っても難しく、それ故に地域社会というものが重要視されている、いや再認識されてきているのでしょう。言うまでもありませんが。挨拶もろくにできないのだから「子育て」が「孤育て」と化すのもうなずけます。我が家では家族内ですら「人間関係の軋轢が人間を成長させている」と主張して止まない人間もいます。色々な意味で(ホンットに色々な、海よりも深い意味で!)それは本当です。軋轢がイヤなら植物か貝にでもなるとよいでしょう。(そんなことできないのですが)
稽古でKYならぬAYがいます。
「相手を読んでない」
とでも言うのでしょうか。先生の話をよく聞いています。力みません。とてもよい門下生です。
しかし全部自分中心のペースで動いています。相手あっての稽古でしょう。
相手がどういう状態なのか気にかけられないのか忘れているのか、
完璧に近い動きにもかかわらず、完全にずれたタイミングで動いている人を多々見かけます。
もしくは相手を全く思いやらない所作など。
「相手を思いやりましょう」
などとナマヌルイことは申しません。
武芸です。人殺しです。キレイゴトではありません。
相手を思いやらねばならない理由はただ一つ、「相手をいかにして精神的に追い詰めていけるか、相手に身になって考えましょう」唯それだけだと思っています。楽に勝つための方便です。
社会生活でよく思われている効果はあくまで「副産物」に過ぎません。
武芸者は敵を本気で殲滅に追い込むための知恵を身に付けたいからこそ、「相手を思いやる」術を身に付けているべきです。
コイツが完璧にできれば文字通り「触れずに敵を殺す」ことも夢ではありません。
もし、相手を思いやる術を学ばずして汗水流して稽古に励む武芸者がいたとしたら、かなり時間と労力を無駄にしていると思います。
ただ、平和な世なれば、副産物と本来の目的が混沌としても構わないと思います。この場合、副産物をうまく使えない人は治世を乗り切れませんね。
だからそれ故に、昔の人は人の心を思いやる術に長けていたのかなとも思います。
そんなことは文面にするまでもなく、ごく当たり前のことだったのでしょう。
話が大幅にずれまくりました。
子育てでした。
息子にも乱世治世ともども便利に使える「重い槍」もとい「思いやり」を持たせ、周囲とのコミュニケーションを清濁、苦楽いかようにも楽しめるよう育てていきたいと思います。
SD100121 碧洲齋