不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

武神館の漫画

先日ネットで購入したマンガを読みました。

私が所属する武神館と宗家初見良昭先生を描いたものです。
著者は同じく武神館の女性門下生の一人です。
恥ずかしながら実は今まであまりよく彼女を存じ上げていなかったのですが、このコロナ禍で逆に今までよく知らなかった門下生同士がネット上で仲良くなると言う事が増えている気がします。
初見良昭先生は今まで少なからぬ本を執筆したり、武道雑誌に掲載されたりしてましたが、さすがにマンガに当流が取り上げられるというのは初めてです。それで興味を持ち購入しました。

著者の女性同門も比較的長いキャリアですが、他人からの視線による武神館というのはとても興味深いものがあります。宗家が稽古の中で語った教えや哲学を表現豊かにかつ簡潔にマンガとしてまとめていますが、なかなか味のある描写で心打つものがあります。

武神館は海外でこそ恐らく一番有名な古流ではないかと思いますが、国内ではよほどのマニアでないと知らないという流派です(笑) 外国人が大多数を占めています。今回マンガによって宗家の哲学を語っているという点がとても分かりやすいと思います。これは海外でも出版されるそうです。武神館ならではと言う事でしょうかね。

 

私もコロナ禍が明けたら弟子を取って指南したいとは思っているのですが、御時世柄、なかなか難しいでしょうか。

 

令和参年葉月十一日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

 

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山岡鉄舟を遥かに

私が禅の手ほどきを受けたのは2002年、32歳の頃ですが、本格的に老師に師事して禅に打ち込むようになったのは2007年秋、その2月に父が他界しました。

それまでの21年間は武芸一筋でしたが、2007年は生まれてから現在に至るまで一番最悪の時期でした。会社の人間関係、武芸の問題、家庭内の問題その上に父の他界が重なり、精神状態がかなりおかしくなり、一時期鬱症状が出ていたぐらいです。何度か自殺未遂にまでなりました。そう言うときは本当に死ぬことが怖くなくなるものです。それまでは武芸で培った精神力で何とかなると思っていましたが普通に全く歯が立ちませんでしたね(笑) そこでその5年前から手ほどきを受けていた禅が良いと思い立ち、師を探しましたが・・・女性運も金運も全くないにも拘わらず、師匠運だけはどうにも恵まれているようです。それが今に至るまで師事している二人の臨済宗の老師です。その内一人には独参をして頂いています。詳細は申しませんが大変優れた老師です。

あいにく現在はこのような世情なので独参して頂いている方の坐禅会は中止してますが、もう一つの方はこの状況下でも坐禅会が行われています。その寺での話です。

 

この寺は東京都近郊にある大きな規模の禅寺で、幕末にはかの山岡鉄舟が当時その寺の住職をしていた老師に禅を指南を受けていました。山岡鉄舟の住んでいた辺りからその寺まで、直線でも20キロ、実際はもっとあったことでしょう。通い詰めたのは若い頃だったそうです。禅と武芸を修行する者にとって山岡鉄舟は憧れの対象ですが、伝記を読むたびにため息が出るほど凄まじい修行をしている方です。武芸も禅も。

 

寺には山岡鉄舟が寄進した石灯籠があります。寺は格式が高いので関東では珍しく勅使門があり、石灯籠はその内側左右に一対あります。山岡鉄舟のものの考え方が分かりそうです。

坐禅会があるときはその石灯籠の前を通って坐禅堂に向かうのですが、通るたびに我が身のふがいなさを噛みしめずにはいられません。恥を忍ぶというのか。ある意味私が根詰めて坐るのはほんの僅かでも山岡鉄舟に近付きたいと思っているからかも知れません。

山岡鉄舟は享年53歳だったそうです。私も来年その歳になりますが、そもそも比較する方が笑えます(笑) ただ粛々と禅と武芸を精進して参りたいところです。

 

令和参年葉月朔日

武神館 不動庵道場

不動庵 碧洲齋

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山岡鉄舟

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山岡鉄舟が寄進した石灯籠。左側に見えるのが勅使門。

 

武道とは

・・・という大上段に構えた問いはあまり好きではありません(笑) 私は武門の末席を少し汚している程度の未熟者なので、難しい事は分かりません。ただ歴史的事実からほんの少しばかり再確認していきたいところです。
 
「武道」という単語は実は新しくて明治に入ってから造語されたようです。それ以前は武術とか武芸とか、そんな感じでした。理由は簡単で、明治時代になって各藩に依存していた武士による軍事力は解体され、国家としての市民による制式軍事組織は「軍隊」として統合、再編成され、手本が欧米の近代的な軍隊に定められたからです。
 
そもそも武術が軍事的に集中運用されていた戦国時代は明治の世から数えても250年も昔のこと、江戸末期の人であればヒイヒイおじいさんですら戦を知らない状況でした。つまり江戸時代、初期を除いて全員が「軍隊としての実戦経験者は皆無」でした。時代劇でもせいぜい毎週悪人が捕縛される程度で、諸外国からの侵略はもちろんのこと、戦国時代のような世の乱れもなく、幕府に不満を持つ外様の藩ですら忍従して平和を保っていたという、日本史でも希有な時代でした。幕末になって新政府軍と幕府軍が対峙しましたが、それはもう戦国時代の戦い方ではなくて大小の火器を集中投入し、刀剣を持った兵士が斬り込むという、前近代的な戦術になってしまっています。新撰組のような剣術のプロ集団ですらライフル銃を持った農民兵の前には散々でした。
 
つまり事実上、武芸というものは江戸時代にはすでに本来の目的であった軍事における用法は完全に廃れ、武士の嗜みになってしまったこと。それ故に個人技としての武技がかなり研鑽されて、多くの流派が作られました。そこにきて幕末を経て明治時代になるとその事実を追認するかのように公式に使わないという流れになったと言えます。
 
当時の武芸者たちは相当悩み、苦しんだようです。いかにして継承してきた武芸の流儀を守るべきか。そこで、書道や茶道、華道に倣って「武道」と名をあらためましたが、明治時代からあとは茶道や華道と斉しく、完全に個人の趣味になりました。もちろん軍隊や警察では一部継承されましたが、基本的には市井の道場で稽古されて、お金と時間と興味がある人であれば誰でもできる世の中になったと言うことです。しかし逆に言えばこれも良いことで、誰もが憧れていた、当時の人口比で6パーセント程度しかいなかったサムライになる事ができました。実際にその哲学は良くも悪くも社会の各所で用いられ、モラル向上の一助にはなったと思います。また、それは軍隊にも利用されました。それで軍隊の生活規範は禅宗ですから戦前の軍隊にて勤務した将兵の皆様には本当にお気の毒でした。
 
幕末維新や先の大戦の大敗を経ても今なお武道は結構隆盛で、今では海外にまで広まっていて外国人武芸者は大変多くなっています。日本の武道というのはそれだけ魅力的なのだと想うと嬉しくなります。
 
私の師匠の受け売りですが、学んでいる武道を社会にて活かせないようでは意味が無い。ま、体術や剣術を稽古していて、男として満足感が得られるというだけでもいいと思うのですが、師匠としてはそれではダメなのだそうです。つまり、維新後、戦争で使われるでもない武芸がこの世にあって廃れもせずにそれなりに繁栄しているのは、技術的側面ではなく、その精神的哲学的側面に重きが置かれ着目されたゆえに生き長らえてきた、ということです。
 
ミもフタもなくなってしまいますが、これから先、戦争があっても各流儀の武技が戦争で用いられることはまずないでしょう。個人的なやむを得ない闘争や護身に用いられることはあっても、それは恐らくかなりのレアケースです。故に武道はそう言うことではなく別の面で社会に貢献する、社会に応用するべきだ、ということのようです。正しいか間違っているか分かりませんが、戦国時代から400年以上、本来の軍事目的に用いられなくなった武道が今に至るまで連綿と続いている理由はそんなところにあるのではないかと考えます。そしてそれがうまく機能しているからこそ、武士階級がなくなってから150年経った今でもサムライが尊敬されていると考えます。
故にどんなに華麗で優れた技を持っていても市井ではアルバイトなどでやっと糊口を凌ぐ、などというのはあまり誉められないということでしょうか。もちろん武芸者であれば選りすぐれた技量を持つべく日々研鑽せねばなりませんが、平時の武芸者たるや、更にその先、その武芸を平時に応用できねばならないという、大変難しい課題があります。いや、実際これに関しては私も人のことを言えた義理ではありません(笑)
 
ずいぶん昔ですが、宗家より槍術を指南して頂いていた折、「相手の体を突いてどうなる、心を突けないと意味が無いぞ。」というようなことを言われてハッとなったことがあります。現代で槍を以て人を突き刺すなど、よく考えたら蛮行の極み(笑) しかし現実にそれを稽古する者はその行為から何を期待して、或いは求めて稽古を続けるべきなのか、よくよく考えねばならないと考えたものでした。
 
そんなことを思い浮かべながら、江戸時代から現代に至るまで戦争には使われなかった武芸の在り方についていかにあるべきか、いつもよく考えます。

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令和参年文月七夕
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

武道と格闘技の差

前にも書きましたが、また書き足します。
最近はあまりやらなくなりましたが、20代の頃はよく複数と対峙する稽古をしたものです。1対複数です。1対4というのもやったことがあります。丁度士導師(先生)の段位を拝受した後ぐらいでしたでしょうか。もっと凄かったのは私は小太刀(脇差し)で4人の槍を持った相手を始末する稽古など。片手で稽古というのもあったかも知れません。

私は山籠もりや武友たちと稽古するときは山中の傾斜地や障害物が多いところで稽古したこともあります。戦闘環境がかなり異なる状況下で戦う術を学びました。他流はどうか分かりませんし、同門でも他の道場についてもあまり分かりませんが、武芸は本来この位考えて稽古せねばなりません。30代ぐらいからは畳の上でも岩場の如く、森林中の如く、相手が1人でも複数の如く動けるようになりました。

スポーツ格闘技家でももしかするとこの位できる方もいるかもしれませんが、基本スポーツ格闘技ではまずあり得ない状況なのでそもそもそういう環境下でトレーニングをする必要がありません。試合では5-7m四方の正方形の上でのみ戦います。戦いそのものは厳正にルール下のもとで行われますが、逆にそれだけにかなりハードです。私自身も昔、ボクシングやキックボクシングを観戦したことがありますが、観ている方もアツくなりますし痛みを覚えるほどです。さすが観戦格闘技だと思いましたね。自分で言うのも何ですが、正直古流の演武よりもずっと面白かったと記憶しています。

スポーツ格闘技は相手、場所、日時、時限、ルールが明白に定まっている戦いで、古流はそうではないということです。スポーツ格闘技は古流より強い、と言う方もいますがある意味それは正しい。そしてそれは上記の条件が揃った場所では特に。

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図にしてみました。これは以前海外同門に説明する為に作ったものなので英語になっていますが、分かると思います。★がスポーツ格闘技における試合です。スポーツ格闘技選手たちはこの★ポイントまでに万全にしておく必要があります。戦うべきポイントが明白だからです。故に激しい戦いなのかも知れませんが。

武道、特に古流では青線の如くありたいと思っています。古流にてスキルアップをするというのはこの青線のレベルをどれだけ上げられるかに掛かっています。スポーツ格闘技家は寝込みを襲われたり、街を歩いているときに背後から襲われてケガをしても恥ずかしいことではありませんが、武道家はそうではありません。確実に武門を汚しかねない、恥ずべき失態です(あ~すみません、ちょっと言い過ぎですが)。日常の生活にあってもどれだけ常在戦場の状態でいられるか、というのがポイントです。スポーツ格闘技家には引退がありますが、古流では基本、本人が引退と言わない限りは現役です。試合がないからテキトーでもいいや・・・ということも可能ですが、試合がないからこそ古流を学ぶ人はいつも極限まで神経を研ぎ澄ませて稽古をする必要があります。そういう意味ではスポーツ格闘技家よりも古流の武道家の方が強い場合もあるということでしょうか。もっとも私は流派や種類に関係なく、個人の資質にほとんどが掛かっているという主張を取りたいところです。実際流派によって強い弱いという議論はほとんど意味を為しません。

 

令和参年皐月三十日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

 

#武神館 #初見良昭 #古武道 #武道 #武術 #道場 #入門 #埼玉 #草加

進化と深化

長年武芸をしていると、あるとき、今まで当たり前のようにしてきたことの中に驚きの真実が隠されていたことを発見します。体の動きはもちろんですが、心理的なこと、昔からの知恵、などなど。場合によっては改めて調べると既に書かれていた事もありますが、希に誰も想い付かなかったことだったりします。前者が深化だとしたら後者が進化でしょうか。
私は既知の事象の理を深化させることによって、取り組んでいることを進化させることがあるとすれば、何かを正念工夫して進化させた結果、既知の事象をより深化させることもまた然りと考えています。日本人は割に伝統の知恵や習慣、技法を重要視します。比較的前者のケースが多いのかも知れません。

現代に生きる武芸の場合はそこから規則性や法則性、概念を取り出して社会生活に応用できたら良いと考えます。あ、これは私の師の受け売りですが。流麗で卓越した武技の持ち主はアルバイトで糊口を凌ぐ貧乏暮らし、というのはあまり誉められたものではありません。もちろん武芸で身を立てても良いのですが、武芸の理念や哲学を社会に還元して活かす方がベターです。250年続いた江戸時代、最初と最後の数十年を除外しても200年は自然災害を除けば太平の世でした。これは日本有史以降最長ではないでしょうか。その太平の世で日本の武芸は至高のものに昇華されました。その前に約100年の戦国時代があった後の250年続いた太平の世に、です。故に私は武芸は須く戦場のもののみに在らず、泰平の世にも用を成しうるべきものだと思います。(私如きが言わずとも武芸をされている方々の多くはそう認識されていると思いますが)

ただ深化にしても進化にしても、それだけでは上下に突き進むのは単調です。自然界においてはおよそ直線的なものはありません。自然界は曲線や彩りに満ち溢れています。この進化と深化に彩りを付ける要素、それは「変化」だと思います。変幻自在で流れるような変化、この要素があって古から継承される知恵"knowledge"が"wisdom"に質的変化を遂げる、そう感じます。もっともその変化も調和の取れた変化でないと、とたんに「偏化」してしまいます。なかなかどうして、正しい変化というのは難しいものです。私的には今、この「正しい変化」をいかにすべきか、色々苦慮しています。ここは精進のしどころでしょうか。

 

令和参年皐月二十九日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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自然は無限の変化に富む

#武神館 #初見良昭 #古武道 #武道 #武術 #道場 #入門 #埼玉 #草加

残心

大辞泉より
武芸で、ひとつの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。剣道で打ち込んだあと相手の反撃に備える心の備え。弓道で、矢を射たあとの反応を見きわめる心の構え。

合っていますが合ってません。武芸の心得がない人が書くとこうなるんでしょうか。以前英訳された「無門関」を読んだことがありますが、禅の心得がない人が英訳したというのがありありと分かったような文でした。少しでも坐った人が書いたならそういう訳にはならないのにと思ったことがあります。

古流での主な稽古では、技を仕掛ける人と技に掛かる人のペアで稽古をします。流派によって色々名称が違いますが、例えば剣術だと前者を仕太刀、後者を打太刀と呼びますが、当流では一応前者を捕り、後者を受けと呼びます。演武などではよく上級者や先輩が打太刀や受けを演じることが多いようです。晴れの舞台で後輩を引き立たせる為でしょうか。

大辞泉では残心の項は仕太刀、捕りの心構えの為の語と定義していますが、私の経験では打太刀や受けにも残心はあって然りです。あらねばなりません。稽古、特に古流では組稽古、型稽古が多いのですが、だからと言ってそれは予定調和であってはなりません。斬り尽くす、突き通す、仕掛ける側にも残心が必要です。予定調和のある、いい加減な攻撃では技を仕掛ける側も正しく身に付きません。仕掛ける側は相手の力量で速さや力加減を変えることはあっても、残心になる程度にキッチリと尽くさねばならないと思います。実際私はそうしてます。相手が正しく避けねば確実に当たる、確実に斬るように動きます。これは相手が先生で在っても同じです。忖度した動作は武芸に於いては迷惑なだけです。

考えてもみてください。多くの武芸の稽古は2時間程度ですが、そうすると半分の時間は受け、半分の時間は捕りに当てられます。捕りが「player」で受けが「supporter」だったとしたら(実際海外ではこの単語が使われているのをしばしば聞いたことがあります)、稽古の半分の時間が無駄になります。受けも捕りと同じぐらいに重要な稽古であるべきです。私如きが言わずとも、多くはそう認識されているとは思いますが、流派を問わず、国内外の武門の方と話していて時折引っかかったので敢えて書かせて頂きました。

稽古に於いては両者各々が主人公として互いに助け合って精進すべきかと思います。

令和参年皐月二十三日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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靖国神社で行われた他流演武の一コマ

 

伝統と現代の間

私は武神館という武門の末席を拝しています。
ネットやテレビでご覧になった方も多いと思いますが、海外から長期短期でやってくる門下生が大変多い流派です。私も数えたことはありませんが、今まで来日して私と交流を持った海外門下生はたぶん少なくとも50ヶ国以上には登ると思います。
中には英語も話せない方もいるのでなかなか大変に思うことしばしばでしたが、普通の日本人に較べてかなり国際色豊かな生活環境ではあると思います。

稽古時の胴着についてです。これはあくまで私個人の独断と偏見に基づく見解であって、武神館の公式見解でも私の師匠の意見でもありません。あくまで私が長年所属して理解した範囲という事でご了承下さい。

通常、スポーツ格闘技はともかくとして現代古流問わず武術では胴着を着て稽古をします。当たり前ですが。武神館では一般的な古流と較べて比較的自由が認められています。例えば夏は胴着の上は着ないでTシャツで裸足、逆に冬は厚手の靴下を履いて上の胴着の下にもう1枚着たりとか。割と自由にしている方を多く見かけます。YouTubeなどでもご覧頂けると思います。

若い頃は古流の流れを汲む武神館もやはり稽古着は厳正に着こなすべきだと思っていましたが、ここはやはり武神館ならではの独自の指向性があるように思います(しつこいようですが誰かが公式見解を言ったわけではありません)。

まず先に書いたように世界各国から様々な門下生が来日して稽古を受けます。つまり時差や季節が全く違うところからやってくる人も多くいるわけです。そして決して長くはない滞在期間中になるべく多く稽古をするわけです。そのためなるべく体調を崩さずにすぐ稽古できるよう、暑ければ脱ぎ、寒ければ着るという、速やかな稽古におけるよりベターな条件作りを求めていると考えます。(中には厳正に季節に拘わらず胴着を着る人もいます、もちろん)昨今の気候変動の煽りで例えば日本の夏も異常な暑さです。20,30年前と較べてもかなり暑くなってきていることは気象データで明らかです。なので日本人同士であっても杓子定規で守るよりも柔軟に対応した方がよいと私は考えます。エアコンがある稽古場にするとか。外国人であれば尚更でしょう。来日して倒れたらそれこそもったいない話です。

もっと大局的に言えば胴着を来ていた時代と現代の生活環境の違いです。人によっては頑として「古流武芸者は伝統的に制式の胴着を着て稽古すべきである」と主張する方もいます(それはそれで実は尊敬してますが)。でも江戸時代の冬は今よりずっと寒く、夏もずっと涼しかった。で、稽古にはまずほぼ全員が徒歩で道場まで歩いてきました。人によっては10キロとか20キロの道程を歩いてきた人もいたと思います。現代武芸者で徒歩で稽古場に来ている人はどれほどいるでしょうか?たぶんほとんど全員が徒歩よりもっと便利なものを使っているはずです。電車、自動車、バイク、バス、自転車などなど。伝統というなら稽古場まで歩いて欲しいところですが、そもそも先ほども書いたように気候を含めてもはや昔と同じようにはできません。例えば江戸時代に車やバイクがあっても都市部以外ではたぶん使えません。たとえ公道であっても徒歩用に作られていて、バイクはともかく自動車などはとても走れないような道だったからです。道場も今ではエアコンがあったり扇風機を使っていたりしているところが多いのではないでしょうか。なので現代は現代のように稽古すべし、と思うわけです。

稽古の時だけ伝統的、というのは映画のワンシーンのようなものです。私の父は東映に勤めていて、映画の撮影に携わっていましたから私も幼い頃から映画の撮影は何度も近くで見ていました。大河ドラマや時代劇で映し出されるシーンを作るのは大変な作業です。現代にはないものだからです。それを一部分でも再現する手間というのは娯楽ならともかく実用的とは言い難く。草鞋で道を歩くチャレンジをした方がいましたが、私は歩く前からどんな結果になるか良く分かっていました。私自身は草鞋で公道を長く歩いたことはありませんが、時代祭りで甲冑を着て草鞋を履いて割と長い距離を練り歩いたことが数十回ありましたから分かりました。道路は草鞋用にはできてませんし、草鞋も同じく舗装道路用ではありません。チャレンジしてみるのは良いことですが、武芸における実際の戦闘では賢い観察眼と洞察力が刀剣に勝る武器だと思っています。

伝統の根本は頑なに守るとしても、大局的に観て時代によって柔軟に変化させるという考えは、生物の適者生存の法則に従っているのではないかと思っています。その中で伝統として守るべきものはどれか、何なのかを見極めるのも伝統芸能を継承する者たちの命題ではないでしょうか。畏れ多いことですが、皇室においても明治以降にできた伝統も数多くあります。皇室ですら時代の流れで少なからぬ変化をしています。

ちなみにマイルールでは衣更えと同じで多少暑くても5月まではキチンと胴着の正装で、6月から9月いっぱいまでは必要に応じて上着だけ脱ぐようにしています。冬はどんなに寒くても胴着の下はTシャツのみ。足袋は武神館の正装なのでよほど暑くない限りは着用としてます。ただこれはあくまで私だけのルールでこれも人によりけりです。

 

令和参年皐月二十三日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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屋外稽古での一枚。武神館の正式な胴着。