不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

将来の夢

50を過ぎてこんな事を言うのも恥ずかしいのですが、将来やってみたいと思っていることは幾つかあります。それらは別段大それた事でも大変お金の掛かる大事業でもありません。

その中で是非やってみたいのは「四国八十八ヵ所巡礼」です。
日本で一番有名な遍路ですが、昨今は外国人にも大変人気があるようです。
距離は徒歩で1200キロ、日程にして一度に歩く通し打ちをする場合、早くても45日、じっくり歩けば55日以上というもの故、普通にサラリーマンをしている人には無理なプランと言えます。
また、毎日20キロぐらいは歩くのである程度健脚でないと持ちません。

昨今は公共交通機関、バイク、車で回る方も多いようですし、何度かに区切って歩く人もいますので、色々なアプローチの仕方があると思いますが、私は徒歩で通しでやってみたいと考えています。
何かのデータには徒歩で通し遍路する人は毎年おおむね1000人程度、半分前後は途中で脱落するとか。毎日通し遍路として1番札所を出る人が大体3人程度いるって事か(笑) そうだと思います。

私は以前、区切り打ち秩父34ヶ寺遍路をしましたが距離はたかだか100キロです。普通に歩いても5日かそこらで歩けます。(それはそれで大変でしたが)この遍路という巡礼はなかなかにして得難い経験だったように思います。それで今度は四国八十八ヵ所巡礼を目指してますが、やはり徒歩で通しだと旅館に泊まったりと結構お金が掛かります。徒歩でも上級者は野宿するという強者もいるようです。そうすると費用は10万円かそこいらで済むと書いてありました。私も野宿遍路もやってみたいと思ってますが、まずは場数を踏まねば。

何せ埼玉から四国は遠い。というか四国行ったことないし。主要な地方で行ったことがないのは四国だけです。区切り打ちなどという贅沢あるいは時間の無駄はしたくないし、やはり通し打ちの方が気分が出る。と言っても最後に高野山まで回ったらほぼ2ヶ月。まあ今の仕事を辞めてからですかね。今の会社はあまり長くは存続するようには見えないので(笑)、息子の学業が終わる、あるいは学費捻出に目処が付いたら辞めようと思ってます。遍路の費用は退職金の一部から(笑)、なのでお金の心配よりも時期と体力でしょうかね。歩くのは好きです。禅定に入りやすい。

と、そんなことを妄想しつつ日々、仕事の合間に体験者のブログやサイトをくまなく読んで情報収集に努めています。

 

令和参年霜月二十八日

武神館 不動庵道場

不動庵 碧洲齋

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秩父三十四ヶ寺遍路をしたときの写真

 

《お知らせ》

武神館 不動庵道場 開庵
【日時】2022年1月8日土曜日、13:00-15:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

一坐の功をなす人も

普通、臨済宗の寺で坐禅が行われるとき、坐った後にふたつほど読経します。
一つは般若心経、これは禅宗全てで読まれます。そしてもう一つが「白隠禅師和讃」というお経。これは臨済宗中興の祖、白隠禅師が在家のために書いた和讃で、江戸時代の日本語読みで書かれているため、般若心経などのお経よりもずっと意味が分かりやすく作られています。この「白隠禅師和讃」には坐禅の功徳が書かれています。その中の一句が坐禅の効用について書かれています。

「一坐の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ」
たった一度の坐禅でも、今まで知らずに積み重ねてきた無数の罪でさえも消えるだろう。

実際そんなに甘くありません(笑) 私の解釈では「一坐」というのは「一日一坐」ではないかと思います(笑)
つまり毎日ちょっとでも坐ったなら、今まで知らずに積み重ねてきた無数の罪でさえも消えるだろう、という意味だと思います。

つまりほんの少しでいいから毎日の積み重ねが重要だと、私は解釈します。坐禅に限った話しではありませんが、どんな小さいことでも毎日継続していくことが重要ではないでしょうか。たくさんの小さな事の積み重ねが自分の生き方をより良くし、延いては社会に貢献できると考えます。
そういう意味で「継続は力なり」とはまさに名言です。

去年ぐらいまでは朝の坐禅は気が向いたときにだけしてました(帰宅後の坐禅も気が向いたら)。今年に入ってから何故か毎朝一炷を行うようになりました。一大決心とかしたわけではありません。実は私はそういう「決心ごと」があまり好きではありません。何となくやっていることが習慣化した方が長続きしそうな気がします(笑) その朝の坐禅は今年の割と早い時期から始まって今のところずっと続いています。
坐禅会では4炷2時間ぐらい坐るのは普通ですが、毎日継続して一炷坐るのも重要ではないかと思った次第です。今後も継続していきたいと思います。

令和参年霜月二十二日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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《お知らせ》

武神館 不動庵道場 開庵
【日時】2022年1月8日土曜日、13:00-15:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

挨拶

挨拶、どなたでも毎日何度もしている行為ですが、実はこの「挨拶」、元々は仏教用語です。挨は「迫る」、拶は「切りこむ」こと。師匠と弟子との問答のやりとりのこと。私が帰依している禅宗のひとつ、臨済宗では特に師弟間にて行われる参禅の様子を指します。師が修行僧に公案を与え、次の時に修行僧は自分で得た答えを老師の前で答えます。一番有名なのは「両手で叩くと音がする、片手で叩いた音はどんな音か」でしょうか。そのような真剣勝負のやり取りを「挨拶」と呼んでいました。

日本語ではある別の表現もそれに近い意味を指していると思います。それは「一期一会」。その一瞬一瞬、その次がない出会い、そう思えばこその「一期一会」ですから、その時に交わされる言葉はまさに挨拶です。挨拶がいい加減な人は何の根拠もなしに明日も生きているだろうと思い込んでいるが故のいい加減さではないでしょうか。明日どころか1分先まで生きていられる保障はどこにもありません。

挨拶に限った話しではありませんが、一瞬一瞬、目の前のことに全集中できる人というのはたぶん、次の瞬間に死んでも悔いを残さない人ではないでしょうか。いい加減に生きた人ほど死ぬ間際が見苦しかったり、悔やみきれないこと多々あると思います。真剣に生きるという意味は、裏を返せば最後に笑って死ねる人生、死に際に気持ちよく死ねるための行為だと思います。人生の一番最後に気分悪かったらやはりいい気はしませんね。

何でこんな事を書いたのかというと、私は日頃から会社でも家でも挨拶は割と率先して行う方だからです。相手が明らかに敵意や悪意を持っていて無視することが想定できても必ず挨拶をします(笑) ただ昨今、明言は避けますが、私の挨拶を完全無視する人がいるんです。無視して気分悪くなるのは本人なんですけどね。しかも本人にも大きな子供がいて、教育に関わる仕事をしているにも拘わらずそれではいかがなものかと思っています。そういう状況が続くと多くは余計に依怙地になってしまうものですが、年齢が高くなるとそれはもう変更や改善が全くできない状態になります。挨拶に限った話しではありませんが、生きること全般においてそのように智慧に欠ける生き方だけはしたくないものだとよく思います。


令和参年水無月二十二日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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不動明王

私の生まれ年は酉年です。なので本尊は不動明王になります。

また、初めて禅の手ほどきを受けた寺の名前が「不動寺」、秘仏不動明王が安置されています。道場の名前も「不動庵」にしています。

武芸をしている人、修行をしている人にとっても不動明王は守護仏ですから、昔から何となく信仰してましたし、特に禅をするようになった約20年前からは強い信仰を持つようになりました。

仏壇には父が他界した年、2007年に買った不動明王が安置されています。本尊が大日如来ですから好一対ですね。大日如来の別の姿が不動明王と言われています。

基本、占いとかはあまり信じない方ですが、験担ぎにしていることがあります。私は密かに「不動占い」とか言ってますが(笑) 何のことはない、毎朝の読経をした後、不動明王像をじっと見て、怒りや悲しみの表情をしていたら今日一日何か良くないこと、悪いこと、面倒なこと、難題があるという徴で、微笑んでいたらいいことがあるという具合。仏壇の奥なので結構薄暗くて目を凝らしても表情まではあまりはっきりとは見えません。

去年ぐらいまでは不動明王像は色々な表情を見せていた気がするのですが、去年末か今年からはほとんどが微笑んでいるように見えます。私的にも今後すべき事がハッキリしてきました。もしかしたらそれが像に投射されたのかなとも思いますが、その方向性が間違っていないのだと密かに思っています。

ただ不動明王のご尊顔を拝する前の読経は一心不乱に大きな声で行うようにしています。邪念や雑念、私念が入らないように集中するように心掛けています。それがあって初めて正しく不動明王を拝することができると思っています。

皆さんにも何か験担ぎはありますか?

 

令和参年皐月十日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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我が家の不動明王

#武神館 #初見良昭 #古武道 #武道 #武術 #道場 #入門 #埼玉 #草加

坐禅

座禅会には大抵、暖かくなってくる頃に新規参加者がやって来ます。
雨後の竹の子のようなイメージでしょうか。
私が通っている寺にはあえて(だと思いますが)ホームページもなく、よく探さないと分からない程度の座禅会ですが、寺の規模自体は大きく、準本山級で老師以下僧侶は常に5,6人も在住してます。
坐禅をする禅堂も円覚寺禅堂の写しで本格的です。
常連が大半なのでたまの新参が来てもあまり定着しません(笑)
本日は新参が3人ほど来ましたが、去年はコロナもあって新参はほぼいなかった為、割と久し振りです。
ここの座禅会はそれ程親切に教えてくれない為、新参はなかなか戸惑うことが多いのですが、さて3人のうち何人が来月来るのでしょうか。

私がこの座禅会に参加するようになって14年目です。初めて来たときは末単で、本堂での提唱も老師から一番遠いところで聞いてましたが、いつの間にか老師から2番目に近いところまで順列が上がり、老師とも気兼ねなく話すようになりました。最初の3年は老師から呼ばれるとき「おい」とか「君」とかでしたが、3年後はじめて名前で呼ばれて感動したのを覚えています。よく見てくれていたんですね。

座禅会で坐禅の時間は朝6時から7時までの2時間ですが、私は1時間早く来て2時間坐ります。ここ10年以上私より早く来る人はいませんから、その1時間はなかなかプレミアムな時間ではあります(笑) そしてその1時間こそが私にとっては本当の戦いのような時間です。

今の私にとっては禅道と武道と両方が両輪の輪のようにはたらき、私を構成していると言って過言ではありません。初めて禅の手ほどきを受けたのは2002年で別の遠い寺でした。2007年までその寺に足繁く通って禅への理解を深めましたが、2007年初頭に父が他界した後、思う処あって秋頃に家からより近いこの寺ともう一つの寺を知り通うようになりました(両方とも老師です)。私の本格的な禅デビューはそこからになります。

人によっては「ただ坐っていることに何の意義も見いだせない」という方もいます。確かに「ただ坐っているだけ」ですが、外部には膨大な物質、膨大な情報が氾濫している現代、じっくりと内面と向き合う時間を持っている人が一体どれ程いるのかを考えると、「何もせずに内面と向き合う時間」が結構希少なものであると考えています。少なくとも私には大変有効でした。みんながみんなに有効であるとは思いませんが、お釈迦様の時代からカウントしても2500年ぐらいは続いていることですから、恐らく何か有益な効果があると考えてよいと思います。

座禅会は全国各地で開かれています。私が通っているのは臨済宗ですが、同系統で黄檗宗、別の禅宗として曹洞宗坐禅もあります。もしちょっと気になったり、心のわだかまりがあったらぜひ参加してみて下さい。何かしら得られるものがあると思います。

令和参年皐月九日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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#武神館 #初見良昭 #古武道 #武道 #武術 #道場 #入門 #埼玉 #草加

禅のグループを作りました

この「はてなブログ」に参加させて頂いてまだ二日目という新参者ですが、僭越にも新しいグループを作らせていただきました。シンプルに「禅」です(笑) 

グループ検索したら意外にも禅のグループがなく驚いた次第です。禅とは書きましたが禅宗のみならずどんな宗派でも構いません。要するに仏教全般です。禅仏教とか坐禅と書くと範囲が狭まりそうなのであえて「禅」にしました。

私は19年ほど禅を行じていますが、ただの坐禅会に参加している普通の在家で、全く以て浅学の輩です。本職である僧職系の方も参加して頂けたら嬉しく思います。

よろしくお願いします。

 

 

令和参年皐月二日
不動庵 碧洲齋

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私が行っている寺の坐禅堂です。